おさか菜の日記

適応障害,不安症を抜け必死に生きる限界看護学生のブログ→ゆるくいくことにした→自然体(?)を取り戻したっぽい。まいにちたのしい

それでも私は対人援助を学ぶ

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子どもの発達の授業って、受けるのしんどい。あたかも私が適応障害になったその素地は幼児期・学童期に形成されたと言われているような、或いは、その時期の発達課題に問題があったからその後の人生に生きづらさを抱えるようになったのだと言われているような気がしてしまうから。

 

その様に思うと、私の育ってきた環境や何より母の子育てを遠回しに他でもない私自身が否定することになりかねず、二重に苦しい。

 

子どもの発達段階/課題について理解する本来の目的は、援助の対象としての子どもを理解しやすくし、適切な援助ができるようにすることだと教わった。単なる興味で行ってはならず、責任を持って行わねばならないと。だから、私が私自身の発達を評価することには意味がない。

 

そうは言っても、考えずにはいられない。私が私を楽にできる方法はないかといつもアンテナを張って生きてきた。もしこの知識を客観的に自分のことを理解しようとするために使うなら有益なものにできるだろう。そうやって学問として役立てることができるか、それとも物語として聞いて感情的になるだけで終わってしまうのか。

 

…自分のこともままならない私が、人の援助を学んで何になると言うのか。

 

解剖学や薬学の知識なら淡々と(というか嬉々として)学習を進められるが、心理学や生活の援助に関する座学・実技は度々こうして立ち止まってしまう。そこには前述の無力感が横たわっている。

 

自分が立ち直る過程を見てきたことで、援助の対象者への理解が深まった…。

 

そうやって昇華できるその日まで、私のゆううつ戦記は終わらないのかもしれない。