おさか菜の日記

適応障害,不安症を抜け必死に生きる限界看護学生のブログ→ゆるくいくことにした→自然体(?)を取り戻したっぽい。まいにちたのしい

看護学生のぼやき

初めましての方も、お久しぶりの方も、こんにちは。

おさか菜です。

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大学に入って4回目の夏休みが終わり、後期の授業始まりました。今履修しているほとんどの授業は、去年取りこぼした科目の再履修。とは言えかなり新鮮味があります。出席はしても心ここに在らずだったためか、内容が頭に入っていなかったのでしょうね。去年はまだ頭がぼーっとしたり気分のムラが大きかったりして、90分座っているのもキツかった。それに比べ今年はちゃんと?集中して?講義を受けています(今のところは)。課題もやっつけで終わらせるのではなく、教科書を読んで考えて真面目に取り組んでいますよ(今のところは!)そうすると、気づくことがあるわけですよ…入学当初から感じていた違和感の正体に。

 

多くの学生にとってはただの石ころでも、私には大きな障害物になるようなもの。

それは、曖昧さ

だから、何?

どうして、それ?

これってどこまでを視野に入れて言ってるの?

 

私はこの曖昧さを処理するのが苦手なために、看護を勉強する上でいちいち立ち止まってしまう。私が単に頭の固い学生なだけかもしれませんが、原理原則を追求する方向にしか進めない。定義や適応範囲が曖昧な概念は受け付けない。看護の勉強だけむずかしいのです。言葉はやさしいのに、意味がむずかしいと感じる。他の学生は気にならないのかなあ?大学に入る前、つまり受験期に、数学や物理ばかり勉強していたのが良くなかったのかしら。倫理や政治経済に触れていれば、勉強の仕方(というより理解の仕方?概念の捉え方?)がもう一つあったかも知れない。私が言いたいのは文系理系という括りとも違うのですが、学問としての方向性がここまで違うなら、もう少し満遍なく学びたかったものです。その学問の生い立ちを知るだけでも、空気感が分かったりするのでしょうが…高校生にはちと厳しいぞ。

 

なんか勉強が進んでいかない。身についている感じがしない。

そう思う理由はもう一つあって、これは看護学の特徴も言えることなのでしょうが、未知のものを新しく知るというよりは既知のものの捉え直しにその目的があるというところ。

看護学概論の講義で、看護は実践の科学と聞きました。私個人の理解で言えば、既に行っている看護のケア(/実践/働きかけ/業務)について、そのやり方や効果を検証したり概念化・理論立てを行うことを通して、「看護とは」を問い続けることがすなわち看護学だということです。

高校生までの学習と比べて随分と実践的・応用的です。こういうのも「学問」なのだなあと今は思いますが、受け入れるのにだいぶ時間がかかりました。看護学概論は3回履修しているので、3年かかったと言えるでしょうか。看護学生最初の一歩を踏み出さんとする間に、悲しいかな、同期は来春卒業です。信じられない。信じたくもない。

 

看護学の「メタパラダイム」(という言い方がピンと来ないので言い換えると、看護学の「主題」「キーワード」かな?)は、人間・健康・環境・看護の4つ。これらを厳密に定義しようとするのが難しいのはわかります。文脈によって意味合いが変わるでしょうから。そこは認める(ナニサマ?どこから目線?)。仕方ない。しかし許せない(!)のは、定義と言いながら例や注釈しか述べていないものがあること。(以下愚痴が続きます。)

歴史背景(当時関心の高い社会問題・健康問題)や今後の展望(こんな社会になったらいいなあ)を定義で語るな。ややこしい。定義のくせに定義づけた団体や時代について知らないと正確に理解できなくするなよ。もう少し普遍性を重んじてくれよ、定義だろ。「健康」もそうだけど、「ケア」もまた使いづらい。前の段落の初めで「看護のケア(/実践/働きかけ/業務)」とまどろっこしく書いたが、これは「ケア」という言葉のもつ意味が広く書く人や分野によって異なるためそうせざるを得なかったためである。勘弁してくれ。正直、看護が捉えづらいものなのではなくて、看護用語が曖昧な(概念をきちんと区別できていない)だけなんじゃないかと疑ってしまう。生意気言ってすみません。「分かる」は「分ける」って書くくらいだから、大事なことだと思うけど。あと2年半学生を続けたら納得できるかしら…う〜ん怪しい。(終わり)