私が私であると思えなくなる不安感
最近、Instagramを始めたのとTwitterのアカウントを新設しました。
その少し前はクラブハウス。
うつっぽかった以前と比べて、SNSを利用することへの抵抗感が薄れてきました。
ブログを書き始めたのとほぼ同時にLINE以外のSNSを利用し始めたのですが、
プロフィール画像、ユーザー名やIDなど、決めるのにやたら迷いました。
そう言えばモンハンのキャラクター作るのにも時間がかかったなあ…
そして、プロフィールを書くこともまた難しい。
いつ生まれて
どこに住んでいて
普段何をしていて(学生? 職業? 主婦?
どの間柄の誰と暮らしていて
何が好きで
e.t.c…
今でこそ暫定的に何かしら書けるが、うつっぽかったときは自分のアイデンティティがふんわりしていた。
自分として意識される存在を、私である。とみなすっことが難しく、それ故漠然とした不安感に苛まれた。
雛祭りの日に、生まれたばかりの赤ちゃんの写真が飾られていた。
その写真には、誕生日,時刻,身長体重,母親の名前の書かれたカードが一緒に写っていて、写真立てには父の字で私の名前がある。
手違いが無いとして、写真の赤ちゃんは母の子で、母は私をその子だと思っている。
赤ちゃんの頃のことは思い出せないけれど、母の中では同一人物なのであればそれを信じるしかない。
…うん、私の誕生日がその日であることはまあ認めよう。
住む場所についてだが、
私は生まれてから2度引っ越しを経験し、今は彼の部屋と実家を半々くらいで行き来して暮らしている。
土地との縁?よくわからん。
これからも“郷愁”みたいなものを感じずに生きていきそう。
強いて言えば、通っていた高校や放課後よく過ごした場所はなんとなく愛着があるくらいか。
むしろ、一度しか行ったことのない場所でやけに懐かしさを感じたり、2度行っただけの場所をアナザースカイ(゚∀゚)だと特別視しているところならある。
そう考えると、滞在時間や頻度は自分とのつながりの深さの感覚とあまり一致しないようだ。
住む場所というのは、郵便や身分証明などに便宜上必要なだけで、私であるという感覚には寄与してくれない。
私は学生だ。
しかし、入学して半年で休学し、毎日通って大学生である自覚を得る前にフリーターのような暮らしを始めてしまった。
復学しても週に3日も通学しない生活で、バイトをしている日数の方が多かった。
さらに、学年と入学からの年数が一致しなくなると、早生まれなのも相まって学年は疎か年齢さえすぐには答えられなくなってしまった。
漸く答えた年齢さえ、しっくりこない笑
好きなものはいくつかあるけれど、疲れていると意欲的になれないし、冷めてしまう。
憂鬱な気分のときは、何にも関心をもてなかった。
何からも楽しさや生き生きとした感情を得ることができなかった。
一時的に抑うつ状態にあったのだと今ならわかるが、当時は好きでなくなったか、もとから対して好きではなかったのだと解釈し、随分と寂しい思いをした。
人間としての基本情報(年齢、住所、趣味に職業…などさりげなくチェックされるやつ)が自分にとって不確かだと不安になる。
というより、それらが安定しているから安心していられたということなのだろう。
自由意思、選択の余地の有無あたりが関係しているのではないかと予想する。
思考停止していれば楽だし、選ばなければ選び間違えたと思うこともない。
でも私は選びたい。
その方が楽しそうだし、苦しくなったときに他者を恨まなくて済むから。
着物でお出かけ ~IKEA~
着物を着るのに姿見が欲しかったので、IKEAへ。
浴衣でお祭りへ行ったのを除けば、徒歩圏外に着物で挑むのは初めてのことでした。
お太鼓が多少たわんでいるけれど、まあよし。
この着物を一緒に選んでくれたお姉さんも
「どんどん出かけちゃいな!」
って言ってたし(゚∀゚)b
気崩れが心配だけど、
「今日のお出かけ楽しみだね!よろしく!!」
って帯に念を送ったので多分大丈夫。
気持ちの余裕のために洋服も持ってきてはいる( ˘ω˘ )
IKEAに詳しい友人が同行してくれたので、お目当ての商品までさくさく歩いて商品番号をぱしゃり。
20×120で599円は素晴らしいヽ(´▽`)/
見つけたぞい
お昼ごはんがこちら
パリパリしっとりの王道クロワッサンでした。
パイとかデニッシュ生地が好きで、見かけると必ず選んでしまう。
着物なのでいつも以上に気を遣います。
着てから脱ぐまで5時間
座っていたのが3時間と歩いていたのが2時間
鼻緒のところが最後少し痛かったくらいかな
お腹周りは苦しくなく着ていられた
急いで着た割にはいい感じだなあ
ばばしゃつ→和装ブラ→襦袢(二部式)→着物 の順に重ねて着ました。
ばばしゃつは文字通り祖母から譲られたものです笑
「妹にもらったけど細くて着られないからあげるわ」と。
エスカレーターの乗降りは緊張したな
階段も下りなら余裕。上りはゆっくり。
楽しかったな٩( 'ω' )و
次はどこに行こうかなあ
ゆううつ戦記 大学編
高校編の続きです。
“ゆううつ”な気分がどうして日常生活に支障を来たし得るのか、大学1回生のときの日記が携帯に残っていたので、引用します。
久しぶりの学校でした。
社会保障制度論についての講義でしたが、これは楽しみにしていた講義のひとつでもありました。
がしかし、書けても読めない(特にレジュメが)ばかりか、涙が出て頭も痛くなる始末でした。環境(席や他の学生)だと思いました。
集中出来ないのが悲しくて泣きました。
集中できない理由はいくつかあります。
・今日の服変じゃないかな
・野暮ったくみすぼらしくないかな
・iPad Pro嫌味に思われないかな
・使いこなせていないのカッコ悪いな
・教科書まだ買ってないな
・履修登録しないとな
・今日バイト間に合うかな
・今自分は集中できていないな
・後期もこのままだったらどうしよう
これらに気が散り、そわそわして(≒不安になって)しまうようでした。
うーん、考えすぎ(゚∀゚)
あなたはあなたでいいのにね。
今考えても仕方のないことを、考え続けるのはエネルギーの無駄よ。行動プランを立てるときだけ考えれば…
って、それができたら困ってない( ´_ゝ`)
一番困ったのは、初めての病院実習のとき。
朝早く電車で向かった。間に合う時間には着いたんだけど、降りなきゃいけない駅で席を立つことができなかった。
降りなきゃって気持ちは焦るんだけど、体は動いてくれない。
「いや!行きたくない!」
って声も聞こえるような気がする。
結果その電車の終電までのって、降りて、駅近くのタリーズで一息ついて、先生に電話しました。
電話に出てくれたのは引率で来ていた看護学科長。
状況を説明したはずなんだけど、どんなやり取りをしたか覚えていない。とにかく混乱して、泣きながら話していた。
「止まない雨はない。開けない夜はない。」
そう言ってもらったのは覚えている。
次の日も行けなくて、欠席の連絡をした。
その日の日記はひとこと、
よく頑張ったね、だった
と書いてあったから、そう言ってもらったんだと思う。
その実習は、出席不足で単位を取ることができず翌年再履修になった。
そんな感じで、“ゆううつ”は単に気分だけでなく学生生活に影響していくのでありました。