自己内面の探求に耐える心身
さて、きる瞑想の続き。
前回記事はこちら
ひとことで言えば、身体感覚や運動に集中すれば気を紛らわせ、気分転換になるよねという話。
とは言え私はかつて抑うつ気分のために日常生活すらままならなかったことがある。
程度の問題としてしまえばそれまでだが、当時を振り返って話を広げてみることにする。
気分転換。
つまり、マイナスからプラスへ、悲しみから楽しみまで180°転換することはできなくても、ゼロくらいになら戻れたか?
感情の波をフラットにすることならできたか?
→できない
というより、したくなかったのではなかろうか。
絶望していたかったから絶望していた面もある。
精神的にマゾだったと言える。
勝手に浮かんでくるから悲しくなるのか、悲しみたくて空想するのか…どちらもあった。
気分転換どころか、余計悲しくなるようなものを積極的に摂取していた。
私の心に何が起きていたのか?
矛盾する願望や苦痛があって、何かに何処かが引っ掛かると芋づる式に全部出てきちゃう。出したくなっちゃう。そんな感じだろうか。
きっかけは外部にあるんだけど、周辺に掘り下げちゃうのは私自身の心。
きっかけは誰かの言動であることもあれば、単に自分のコンディションだったりする。寒いとかね(寒いと不安になるのは今でもそう)。
意図的にそうしていたか?
そうだと思う。
何故そうしていたかというと、トラウマというか、心の傷?を抉って引き摺り出すことで分析したかったから。言わば趣味_:(´ཀ`」 ∠):
何か強烈な負の感情と出会ったら、自分の内の何がそんなに共鳴するのか探らずにいられない。
もっと深いところの歪みをすくいあげないと気が済まない。
他者への嫌悪や怒りは、自分の内にある古傷が疼くから。他者は鏡。見えているのは自分の心。
それなら根治させるまで…と、後ろ向きで消極的に見えても、動機は向上心や探究心なのよね。
よく生きようとするから苦しい。
現実適応に苦労したのは対症療法を知らなかった(やろうとしなかった)からだろうな。
せめて保留にする余裕があれば良かったんだろうね。衝動的で冷静さに欠けていた。(若気の至りってやつだな?笑)
今はバランス感覚が養われたと思う。
“日常生活に支障のない程度”の苦悩で収まるように、探求も休み休みにしている。
・マイナス値をとるにしても、着るなり切るなりの、気分転換可能な範囲にするとか
・考え事をするときは、お気に入りのカフェにわざわざ出向いて時間と場所を区切るとか
・撃沈しても3日は心置きなく眠れる日にするとか
・風呂入って試供品の高級美容液を使う(←おすすめ)
…なり何なりすれば、安らかに眠れる(死なない)。
寒さや空腹感、頭皮の搔痒感、姿勢の悪さ、服の着心地なんかは、最初に振り返ると良いよね。
感情の他にも気分に影響を与えるものって意外と多いみたいね。
気づきにくいけれども、気づけば物質的に対処しやすいところだから最初に潰すべきよ(過激派)。
加えて、そもそも別の見方を獲得した。
“相手”の想いは相手のもので、どう表現するか(しないか)は相手の自由だ。というもの。
そして、その受け取り方(受け取るかどうか)はこちらに選択の余地がある。
この視点があるだけで幾分ましにはなった。
なんでも受け取る癖(しかも悪いものほど)があったから、はね返したり受け流したりするには練習が必要だけども、毒みたいに遅効性で蝕まれるようなことは減ったよ。
それに、相手は相手のささくれ故にそういうトゲのある言い方(表現)しかできないのだとしたら?
「お大事に。」と心で思って素通りすれば良くて、なにも刺さりにいくことはないわよね。
現実生活とのバランスを保つこと、
自己と他者をいつでも混同しないこと。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」
誰が言ったか知らんけど笑、自己ダンジョンに潜るなら、最低限の武装はしていきたいものよね。
そう言えば、モンハンにしろペルソナにしろ、
「あれ?負け続けるぞ?武器はこんなに強いのに…」
ってなるとき、防具が弱いか回復アイテムの使い方が下手かじゃないの。
あらやだ( ´_ゝ`)